曽我どんの傘焼き

1193年(鎌倉時代)、父の敵を討つ曽我兄弟が傘をたいまつ代わりにして夜討ちした 故事に由来する鹿児島の3大行事 のひとつ。 また天保7年1836年には曽我どんの傘焼きが行われていたという 記録が残っているそうで、160年は続く鹿児島の伝統行事。
曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟が父のかたきである工藤祐経を討つべく、源頼朝の陣屋に討ち入ったという。
討ち入り当夜は雨。曽我兄弟はたいまつの代わりに雨傘を燃やして夜討ちしたといわれる。
この故事になぞらえ旧暦5月28日の夜曽我兄弟を偲ぶとともに、親を思う気持ちを大切にしてほしいという願いから行事が続けているそうだ。

甲突川(こうつきがわ)高麗橋近くの河川の中で行われる。
河川の中に相撲の土俵のような台が設けられ、そこが傘焼きの舞台となる。
高さ8m、円すい型の竹でできたやぐら。(円錐までの高さは5.5m、てっぺんに差している傘の高さまで合わせると8m) やぐらにはいろとりどりの和傘を差し込んであった。
火入れの前には剣舞や野太刀示顕流(のだちじげんりゅう)の奉納などもあった。
ふんどし姿の人や示顕流の胴衣を着た人、大人、子供30人が「曽我兄弟」の歌を歌いながらやぐらのまわりをぐるぐるまわり和傘を投入する。 炎が空高く10mにも昇り、竹製のやぐらは音を立てて時折爆発した。 約30分間、夏の夜空に勇壮な炎の舞いを披露した。

ところでこの和傘、現代では姿を消してしまい行事用に集めるのも一苦労だとテレビで見たことがある。
薩摩義士の宝歴治水で縁のある岐阜市の和傘振興会からいただいているそうだ。

 
 

そのほかの鹿児島3大行事のご紹介

**妙円寺詣り(みょうえんじまいり)**
1600年関ケ原の戦いにで豊臣側についた薩摩藩第17代藩主島津義弘は、負け戦の中で生き残った50騎余りの手勢で 敵陣に中央突破を敢行した。甲冑姿のまま険しい山々を越えなんとか鹿児島まで引き上げた。 それから19年後85歳で亡くなった義弘は当時の妙円寺、現在の徳重神社に奉られる。 その後武士たちが、関ヶ原合戦の前夜にあたる旧暦9月14日に夜を徹して鹿児島から 徳重神社のある伊集院町往復40キロを甲冑に身を固め歩いたということに由来する行事。

現在でも鹿児島市から徳重神社まで約20kmの道のりを甲冑を身にまとった人たちや一般市民、 小中高学生が歩く。


**赤穂義臣伝輪読会**
おなじみ赤穂浪士の討ち入り話(大石蔵之助あわせて47人が主君である浅野内匠頭の無念の思いを果たすべく 吉良上野ノ介の屋敷へ討ち入った)に由来する。 赤穂浪士の忠誠至純の精神をしのび、旧暦の12月14日に夜を徹して義臣伝記を輪読する行事だそう。 青少年への人間教育が目的のようだ。
 
 

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kooの歴史うんちく ++宝暦治水++

宝暦3年(1753)江戸幕府は薩摩藩に木曽三川 …木曽川(きそがわ)、長良川(ながらがわ)、揖斐川(いびがわ)の治水工事を命じた。 この3つの川の下流地域では幾度となく水害にみまわれていたが宝暦3年大きな洪水があり、 幕府はこれまでにない大がかりな工事をすることを決定した。 当時薩摩藩は財政が豊かだと思われていたため、 遠く美濃地方の治水工事をすることで藩の財政を衰弱させようというねらいがあった。 工事にかかった総費用はあきらかではないが、40万両ともいわれるそうだ。 40万両といえば当時薩摩藩の収入の倍だそう。ちなみに幕府の支出は1万両ほど。 薩摩藩の家老、平田靱負(ひらたゆきえ)が総奉行となり、薩摩藩から1000人を派遣した。 幕府の監督はきびしく、工事期間中は一菜一汁、病気になっても薬も与えず看病を許さない、 また作った堤防をわざわざ壊す、など筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の日々だったそうだ。 工事完成の宝暦5年までの1年余りに90人以上が割腹自殺や病気で亡くなり、 平田靱負も工事終了後すべての責任をとり自害した。

さて今年2004年は宝暦治水(1954年工事着工)からちょうど250年。 これを記念して5月25日には岐阜県海津町から11人が自転車に乗り 鹿児島市平之町にある平田公園にやってきて記念式典が行われた。 じつは鹿児島では宝暦治水のことはあまり知られていない。 美濃の地方の方々は先人たちの偉業をたたえ、手厚く供養しているそうだ。
 
 

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